盆踊りというものには、ある種の魔が潜んでいる。
それは単に太鼓の音に心が浮き立つからでも、浴衣の背に汗が滲むからでもない。
あの円の中に、一度足を踏み入れたが最後、人は知らず知らずのうちに“誰でもない何か”へと変貌する。
今宵、明鹿野レッドもまた、その“何か”と化していた。
午後七時、私は提灯の赤い灯を背に、櫓の傍らに立っていた。
明鹿野の町は、まるで旧時代の幻を甦らせたように、浴衣姿の老若男女であふれ返っていた。
彼らの笑顔の奥に、私はふと「人間の底」に潜む原初の熱――それを垣間見た気がした。
太鼓が鳴る。笛が鳴る。拍子木が空を裂く。
私は拳を握りしめた。
それはレッドのポーズでも何でもなく、ただ、どうしようもなく込み上げる「この土地に根ざす力」を、何かのかたちで握りしめたかったからだ。
「レッドさん、一緒に踊ってください!」
そう声をかけてきたのは、小学校三年生の少女だった。
彼女の手は細く、温かく、私の手を引いた。
私は拒む理由を持たなかった。否、持てなかった。
なぜならその瞬間、私は「明鹿野レッド」ではなく、「盆踊りという幻想の一部」となっていたのだから。
踊りの輪に加わる。
音に合わせて、手を振り、足を運ぶ。
笑い声が弾け、うちわが宙を舞い、空には星の代わりに紙灯籠が揺れる。
私は不意に、祖母の面影を思い出した。
幼い頃、彼女の背にしがみついて見た、あの町の盆踊り。
「今夜、私は守っているのか、それとも守られているのか?」
そんな問いが、太鼓の音の隙間に染み込んでゆく。
踊りが終わった後、私は櫓の上に立ち、ほんの短い挨拶をした。
「皆さんの熱で、明鹿野の夜は今、炎のように燃えています」
それは、赤い炎としての言葉ではなく、一人の人間としての独白だった。
そして、ふと見上げた夜空には、灯籠流しのように静かな月がかかっていた。
明鹿野の夜――その片隅で、私は再び“レッド”という仮面をそっと胸に収めた。
この町の人々は知らない。
その仮面の奥に、どれだけの孤独と熱が潜んでいるかを。
だが、それでいい。
炎とは、誰かに見せるためではなく、誰かを温めるために燃えるのだから。
──了。