やまくに七つの墓巡り かつての伝説に会いに行こう

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新しい観光スポットを作ろう

「山国に七不思議があったら面白そうだね」
そんな何気ない会話をヒントに山国に伝わる伝説を七つ選んでみました。
ちなみに山国出身の私ですが行ったことがある墓は恥ずかしながら一つだけでした。

伝説を巡り、物語を知ることでこの町がさらに面白く感じます。
ぜひ足を運んで見て下さい。

①毛谷村六助 発見難易度 ★★

この物語は色褪せることなく
後世に語り継がれていく

毛谷村六助は、父母が子宝に恵まれず、英彦山の豊前坊(高住神社)に祈願して授かった子であると伝えられ七月六日に生まれたので六助と名付けられた。親孝行でよく働き家計を助けていたといわれている。成人した六助は、太閤秀吉の前で相撲をとり、三十七人抜きをするほどの怪力であった。やがて加藤清正の家臣にとりたてられ、名を木田孫兵衛と改めた。そして朝鮮出兵(文禄の役)の戦場では、至るところで一番槍の功名を馳せたことで知られている。また六助の名が一躍人々に知られる事になったのは、大阪での歌舞伎上演(天明年間)「彦山権現誓助剣」である。これは恩師吉岡一味斎の仇微塵弾正を、恩師の娘お園の助太刀をして討つ物語として、あまりにも有名である。大正時代には映画化もされた。六助はこの地「毛谷村」で青年時代まで過ごし、諸説もあるが享年六十二歳で、この地に埋葬されたと伝えられている。

②三好浅吉 発見難易度 ★★★

親が子を思うように子も親を思う

浅吉は、文政四年(一八二一年)槻木高内に生まれた。父勘助が茸山(なばやま)入会権の争いで罪状となり、入牢した。浅吉は父の代わりに母や幼い弟妹三人の世話をしながら懸命に働いた。獄中の父のことを思うと、いたたまれず、獄中の父と同じように土間に布団を敷き寝ることもあった。「父を帰してくれ」という再三の願いが藩主・奥平昌猶(まさみち)公の耳に達し、父の赦免と褒賞の恩命を受けた。しかし、長い獄中生活から帰ったとき父は、足腰も立たぬほど弱っていた。浅吉は、そんな父を大切にし、父が寝る前に自分が床に入って温めてから父を寝かせるという親孝行を続けた。このような浅吉の真価が認められ、安政三年(一八五六年)四十九歳のとき、百姓から庄屋格に進む出世をし、多くの褒美を賜っている。また仏教を篤く信じ、寺院に多額の喜捨をし、小倉県よりご貢納三ヶ月分を賞与されている。浅吉は明治三年(一八七四年)七月二十日に、五十四歳で生涯を閉じたが、今もなお「孝子・浅吉」とし、人々に賞揚(しょうよう)されている

③木地師 発見難易度 ★★★

時代は進化する。しかし忘れてはいけない、
文化の発展には歴史がある。

木地師とは「轆轤」(ろくろ)とよぶ工具を使用して、椀・盆などの木地を作る職人をいう。かつては、トチ・ブナ・ケヤキなどの良材を求めて深山を移動しながら木地作りを生業とした。この功績は漆器産業の成立を支え、近代悗き物産業の礎となっていった。木地師の足跡は東北から九州にかけての高山の一部にしかみられない。山国町には、正徳3年(1713)~弘化4年(1847)までの木地師の墓が十数基点在している。また寛文7年(1667)の銘のある供物器や三方、飯びつ、播り鉢などの作品が残されており、木地師が活躍した山の文化が伝えられている。

④山本登久 発見難易度 ★★

働き者で、心も正しく死んでも
医療に貢献した女性

大分県の山国町から福岡県の添田町の英彦山に通じる国道496号線沿いに献体解剖に申し出た山本登久の看板がある。ここより少し下りた所に山本家の墓地があり、その一番奥が山本登久の墓である。山登久は小屋川村の山本佐平の妻であり、47歳で死去。上腹部の腫瘍におかされ、生きるのぞみもないことから「 私が死んだら私の体を解剖して医術の進歩に役立ててほしい」と熊谷静雄医師に申し出たため、明治19年5月12日県庁の許可を得て、熊谷静雄、山永得二、両医師が死後翌日に解剖した。記録は峰 貢、三好玄次、清田保弘が担当し、解剖には9時間を要したと墓に記されている。中津で初の献体解剖が明治22年であることから、九州では最も早い時期の献体解剖であっただろうといわれている。山あいの地、山国にあって献体を申し出た登久の志は素晴らしいものであり、現在に伝える話として私たちの胸を打つばかりである。

⑤花房姫 発見難易度 ★

三百年経った今、花房姫は
英彦山を見上げて何を思うのか

宝暦10年(1760)に書かれた「竜樹山開基因縁記」(りゅうじゅさんかいきいんねんき)によると、第3代安寧天皇の病が重くなる原因の光が英彦山にある、と占い師が言った。そこで、その地に宮居を造り、堂守(お堂を守る人)を遣わせ座主(寺を統括する最高地位の僧侶)とし、英姫(はなふさひめ)が妻となった。しかし、夫婦仲が悪かった為、座主夫婦は離婚。英姫は伴と守実に下った後、竜樹山(りゅうじゅさん)に登り、竜樹権現社(りゅうじゅごんげんしゃ)を開いた。その後、英彦山を盛り立てようとした英姫だったが、力が足らず、ここで英彦山をうらめしげに見て自害した。この伝説が、1760年に書かれた竜樹山開基因縁記(りゅうじゅさんかいきいんねんき)という書物に残されているのだそうです。

⑥犬頭太郎 発見難易度 ★★

室町時代、害獣や盗賊から
住民を守った伝説の犬

永生年間(1504~1520)「犬の頭太郎」(犬王丸)は、この中摩地域を猪や鹿の害獣から守り、子供を水難より救い、事故から人を救助し、盗賊から村を守りました。またある時、小倉藩で3人もの人を殺し、守実の大歳祖神社に逃げ込んだ、凶悪な大男の盗賊を退治じ有名になった。犬の名前を「犬頭太郎」と言い、後に「犬王丸」と呼ばれるようになりました。そして豊前一円にその名が知られるようになりました。犬頭太郎は5匹兄弟の頭として中摩地域一円を兄弟犬と共に守り、害獣や盗賊の居ない住みよい郷となりました。これも犬の頭、太郎丸のお陰だと讃え、500年後の今日まで、この地域の名前となり、ここを「犬王丸」と呼んでいます。その犬の墓が、この地より50メートル上の堂様の横に、犬王丸地域を眺めているように建っています。どうぞこの名犬にお参りしてご利益を授かって下さい。

⑦村上姑南 発見難易度 ★

当時難病であった天然痘の予防を全国に
先駆けて近郷に広め、多くの子ども達の命を救った。

中摩村に医者の長男として文政元年(1818)に生まれる。16歳で日田広瀬淡窓の咸宜園に6年学び最高位の都講となる。中津山川東林に1年学ぶ。23歳医学の修業に秋月、筑前等に学び、後に当時難病であった天然痘の予防を佐賀藩にて入手した。その牛痘の接種を嘉永2年(1849)全国に先駆けて近郷に広め多くの子ども達の命を救った。明治4年(1871)、地元に養翼園を開塾後、跡田村(本耶馬渓町)に村上田長等と鎮西義塾を開く。また咸宜園を再興、日田田島村に学思館を起こし多くの優れた人材を世に送り出した。また、詩・書・水墨画に巧みで各地にたくさん遺作を残している。墓は旧自宅の裏に、碑は養翼園門下生によるものが肥前屋のお仮屋に、学思館門下生による碑は日田岳林寺境内にある。明治23年(1890)6月21日、73歳で学思館にて没した。今でも命日には姑南忌が地域の人々により行われている。

最後に

今回は七不思議にかけて七つの伝説を紹介しました。山国の一番の観光スポットは猿飛千壺峡ですが、メジャーなところではなく、地元の人も知らないところを巡るのも絶対に面白いはずなので、山国へお越しの際には、ぜひ足を運んで見て下さい。