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「兜虫と仮面――或る夏夜の見た夢」2025/7/26

夕暮れの山国には、紫色の風が吹く。空はまだ明るいが、蝉の声が急に遠くなり、代わりに静かな翳(かげ)が、田の畦(あぜ)や木の根に滲み始めていた。僕――明鹿野レッドは、例によって仮面を脱ぎ、町の巡回を終えたところだった。

 そのとき、少年が僕のもとに駆け寄ってきた。

「レッド!レッド!かぶとむし、見つけたんだよ!」

 その声は、戦いの号令にも似ていた。が、それは戦場ではなく、ただの一本のクヌギの木の下で発された、純粋なる勝利の雄叫びであった。

 彼の小さな手には、立派な兜虫がしがみついていた。黒々とした甲冑のような体躯に、見事な角を持ち、まるで武士の化身のように静かに息をしている。

 僕はその姿を、しばし無言で眺めていた。子供が「生きもの」を持つときの、あの神聖にも似た表情――それはかつて僕にもあったものだ。だが、仮面の内側で幾多の「戦い」を演じてきた僕には、もはやあの純粋な光を宿す資格はないのかもしれない。

 しかし、少年は言った。

「レッドも持ってみる?この子、強いんだよ!」

 僕は恐る恐る手を差し出した。兜虫の足が、掌にぴたりと吸い付いた。そのとき、不意に思ったのだ――この虫もまた「仮面」を被っているのではないかと。武骨な黒い鎧、その下にある柔らかな命。それは僕と、何が違うのだろう。

 仮面は、戦いのための装束か。あるいは、自分を守るための嘘か。兜虫は何も言わない。ただ、黙って僕の掌の上でじっとしていた。

 空には星がひとつ、またひとつと瞬き始めた。

 少年は言う。「かぶとむしは夜になると強くなるんだよ」
 僕は答える。「ヒーローも、夜になると少しだけ、本当の顔に近づけるのかもしれないな」

 その後、少年と別れ、僕は一人で仮面をつけ直した。レッドという名前の裏側で、兜虫の重みをまだ右の掌に感じながら――。

 そうして、またひとつ、夏の夜が始まった。