曇天、鉛色の空が低く垂れこめてゐた。七月というのに、どこか涼しさすら感じる朝である。私は例によって、赤いスーツのまま、明鹿野の坂道を下ってゐた。
今日は「道路愛護デー」、すなはち、地域ぐるみで道路脇の草を刈るという日である。だが、正直にいって、私は「草を刈る」という行為に一抹の虚無を感じてゐる。草は伸びる。それを人は刈る。また伸びる。人はまた刈る——この無限の繰り返しのなかに、人間はどれほどの意味を見出せるというのだらうか?
集合場所の公民館前には、すでに数人の老若男女が、鎌を持ち、長靴を履き、軍手をはめて待ってゐた。
私が現れると、ひとりの老婆が笑ひながら「おや、レッドさんもお手伝いかい」と声をかけてきた。
私は会釈をして「はい。愛護の心は、赤い炎とともに」とだけ答へた。我ながら、やや気取った返答だったやうにも思ふ。
さて、鎌を振るひはじめると、不思議と人間の身体というものは、雑念を捨ててただ機械的な運動に帰着するらしい。ススキ、ヨモギ、クズ、ツユクサ——草という草を刈りながら、私はふと、ある詩人の一句を思ひ出してゐた。
「道の辺の 草にも命 あらましを」
命を刈ることへの逡巡。それを乗り越えねば、ヒーローなど務まるはずもない。だが私は、命を刈るのではなく、道を守るためにそれを刈ってゐるのだと言ひ聞かせた。——それは己に対する方便であったかもしれぬ。
正午、草はある程度まで刈られ、袋に詰められ、風が吹くと青臭い匂いが辺りにたちこめた。汗を拭きながら、隣の青年が「レッドさん、ほんとに地域のことようやってくれて感謝してます」と言った。
私はただ、微笑んでゐた。ヒーローとは、さういう役回りの存在なのだ。
帰り道、私はふと空を見上げた。そこには、刈られた草のごとく形を崩しつつある雲が、風に流されてゐた。
草を刈っても、また生える。人の営みとは、斯くも儚く、斯くも執念深い——それでも、私は刈る。人々が安心して歩ける道のために。
——それが、私に与へられた「赤い炎」の意味なのであらう。