夕暮れの山国には、紫色の風が吹く。空はまだ明るいが、蝉の声が急に遠くなり、代わりに静かな翳(かげ)が、田の畦(あぜ)や木の根に滲み始めていた。僕――明鹿野レッドは、例によって仮面を脱ぎ、町の巡回を終えたところだった。
そのとき、少年が僕のもとに駆け寄ってきた。
「レッド!レッド!かぶとむし、見つけたんだよ!」
その声は、戦いの号令にも似ていた。が、それは戦場ではなく、ただの一本のクヌギの木の下で発された、純粋なる勝利の雄叫びであった。
彼の小さな手には、立派な兜虫がしがみついていた。黒々とした甲冑のような体躯に、見事な角を持ち、まるで武士の化身のように静かに息をしている。
僕はその姿を、しばし無言で眺めていた。子供が「生きもの」を持つときの、あの神聖にも似た表情――それはかつて僕にもあったものだ。だが、仮面の内側で幾多の「戦い」を演じてきた僕には、もはやあの純粋な光を宿す資格はないのかもしれない。
しかし、少年は言った。
「レッドも持ってみる?この子、強いんだよ!」
僕は恐る恐る手を差し出した。兜虫の足が、掌にぴたりと吸い付いた。そのとき、不意に思ったのだ――この虫もまた「仮面」を被っているのではないかと。武骨な黒い鎧、その下にある柔らかな命。それは僕と、何が違うのだろう。
仮面は、戦いのための装束か。あるいは、自分を守るための嘘か。兜虫は何も言わない。ただ、黙って僕の掌の上でじっとしていた。
空には星がひとつ、またひとつと瞬き始めた。
少年は言う。「かぶとむしは夜になると強くなるんだよ」
僕は答える。「ヒーローも、夜になると少しだけ、本当の顔に近づけるのかもしれないな」
その後、少年と別れ、僕は一人で仮面をつけ直した。レッドという名前の裏側で、兜虫の重みをまだ右の掌に感じながら――。
そうして、またひとつ、夏の夜が始まった。