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明鹿野レッド、健康診断完了す。2025/8/1

朝焼けの山を越えて、明鹿野レッドは今日も出動……などというのは、あまりに作り物めいていて、僕自身も白々しい。実のところ、今日はヒーロー活動など一切ない。赤いマントも防火スーツも、押し入れの中で黙して久しい。

代わりに僕が身にまとっているのは、灰色のジャージと無地のTシャツ。そして、目的地は「中津市立やまくに診療所」──すなわち、健康診断である。


午前八時、受付の名簿に名前を書き込む。
「明鹿野レッド」と書けば笑われるかと思い、本名を書いた。周囲の老人たちは、皆、同じような老眼鏡をずらして順番を待っている。血圧を測りながら井戸端会議をしている。

「今年もB判定で済むといいわねえ」
「わたしは昨年C判定だったけど、何が悪いのかわからんかったわ」

正直、彼女らの会話は、僕にとっては遠い異国の言葉のように響く。


まずは身体測定。
身長は変わらず。体重は、少し増えた。「筋肉ですよ」と強がってみせたが、看護師は機械の数字しか見ていない顔だった。

次に、視力検査。
「Cの穴の開いた方向を教えてください」と言われて、思わず「上、右……いや、それはトリックだ!」と叫びそうになるのを堪えた。
ヒーローは常に敵の罠を疑う。しかし、ここは敵の基地ではない。ただの診療所である。僕は静かに「左」と答えた。


検尿という試練がやってきた。
誰もが一度は通るこの小さなコップとトイレの儀式に、かつての戦場のような緊張を覚えるのはなぜだろう。
「はみ出すな」「こぼすな」──それはまるで、レーザーを避けながら潜入する任務のような慎重さを要した。
ヒーローとしての経験が、意外な形で役に立った瞬間である。


そして、レントゲン。
重たい鉛のエプロンを身にまとい、機械の前に立つ。
「息を吸って、止めてください」と命じられたその瞬間、まるで悪の組織に捕らわれたような錯覚を覚える。
でも僕は、かつて数多のピンチを乗り越えてきた明鹿野レッド。こんなことくらいで動じてはならぬ。


診察室に入ると、白衣の医師が問診票を見ながら口を開いた。

「うーん、特に異常はないですね。でも少し肝臓の数値が……」

「肝臓ですか?」
「お酒、飲みすぎてませんか?」
「……いや、それは……任務後の乾杯が、つい……」

医師はペンを止めた。
「ヒーローも、ほどほどにね」

それが本気の忠告なのか、ただの社交辞令なのか、僕にはわからなかった。ただ、医師の眼鏡に映る自分の顔が、少しだけ赤らんで見えたのは確かだった。


帰り道。山の向こうに蝉の声が降っていた。
健康とは、戦う力そのものではない。
むしろ、戦わずして過ごす静かな日々の尊さを測る指標なのかもしれない。

今日も僕は、赤い炎を胸の奥にそっと灯しながら、山国の道を歩いてゆく。