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ヒーローが泣いた夜 2025/7/30

午後七時、日はとうに山の端に沈み、空の色は藤鼠(ふじねず)から漆黒へと移ろいつつあった。私はその頃、村の公民館裏に設けられた「お化け屋敷」の前に立っていた。草の匂い、濡れた木の感触、そして薄闇の中に蠢く無数の視線。村の者たちのざわめきが、どこか夢のように聞こえた。

 言うまでもなく、私は明鹿野レッドである。赤いスーツを着た、山国の平和を守る仮面の男。しかしその仮面の下には、戦隊ヒーローとは程遠い一人の男がいる。そう、今宵この時、私はただの一市民として、好奇心と若干の義務感を以って、お化け屋敷に足を踏み入れたに過ぎない。

 入り口の幕をくぐると、途端に空気が変わった。そこには風もなく、音もなく、まるで時間そのものがどこかへ退いたかのようであった。蝋燭の光がぼんやりと揺れ、黒布の裂け目から、何かがこちらを見ている――そんな錯覚に幾度も囚われた。

 進むごとに、足音は吸い取られ、呼吸は浅くなっていった。道の左手には、白装束の女が不自然に立ち尽くし、右手には髪の長い人形がこちらに向けて首を傾けていた。造り物であることは重々承知している。だが、それでも心のどこかで「もしかして」と囁く声がある。その声が、恐怖を育てる。

 ひとつ、カーテンをくぐった先で、突然「ギャァ!」という叫びが耳を裂いた。思わず仮面の下で息を呑んだ私は、その叫びが録音であることに気づくまでに数秒を要した。――まったく、こんなものに驚くとは。内心で自嘲しつつ、歩を進める。

 しかし、次の部屋で私は、確かに“何か”を見た。

 それは、明らかに演出ではなかった。灯りの届かぬ奥の闇に、じっと佇む影。その輪郭はぼやけ、顔は判別できなかった。ただ、その視線だけが、異様に鮮明で、私の存在を否応なく捉えていた。

 「……誰だ?」

 思わず口に出したその問いに、応えはなかった。ただ、影はすっと、溶けるように闇の中へ消えた。あまりに静かに、あまりに自然に。

 私は、躊躇した。ヒーローであるはずの私が、次の一歩を踏み出すことをためらったのだ。

 ようやく出口の明かりが見えたとき、私は奇妙な安堵と同時に、ある種の寂しさを覚えた。あの影は、果たして人為的なものだったのか。それとも、私の心が生んだ幻だったのか。

 村の広場に出た瞬間、子どもたちが駆け寄ってきた。「レッド、どうだった!?」「怖かった?」と無邪気に問いかける。私は仮面をつけたまま、ひと呼吸置き、こう答えた。

 「……うん、怖かったよ。すごくね。」

 けれど、その「怖さ」が何であったのか、私はまだ言葉にできないでいた。お化けよりも、人の心の底にある“見てはならぬもの”――今夜、それを覗いてしまったような気がしてならなかった。