みなさん、毛谷村六助という人物を知っていますか?
毛谷村六助
この町に住んでいる者ならこの名前を知らない人はいないと思います。
僕が小さい頃に聞いた話は、「岩の中から生まれた相撲の強い人」
そう教えられていました。岩の中で生まれたか岩の中で修業したかのどちらかだったと思いますが忘れました。
でも良く考えて下さい。小学生でも岩の中で生まれたとか、修行したなどに騙される訳もなく
作り話だと思っていました。
でも実在した人物らしいです。では一体どんな人物だったのでしょうか?
六助の父は広島の人で佐竹勘兵衛といい、九州の緒方氏を討つために京都郡今井にやって来て、そこで知り合った園部与兵衛の娘との間に生まれたのが六助だという。当時浪人は人家には住めなかったので、犬ヶ岳に登りケヤキのほら穴で夜を明かし、それから六四町下った現在地に村を開いた。毛谷村の名はケヤキからついたといわれる。
毛谷村六助伝説より引用
父が広島出身で、九州の緒方氏を討つために京都群今井にやってきた。九州に用事で、なんで京都やねん!
と思ったら、福岡県京都郡(京都と書いてみやこと読むみたい)でした。
これなら納得です。毛谷村の名はケヤキからついた。昔はケヤキ村と呼ばれてそれがケヤムラに変化したんだと思います。初めてしりました。
さらに調べていきますよー
六助は正直で親孝行な男で、きこりをし薪を背負って小倉の町(彦山の町だともいう。)に売りに行った。大変な力持ちで馬の四本足を両手で持って差しあげたという。その力は彦山権現に祈願してさずかり、彦山豊前坊の窟で天狗から剣術を授けられたといわれる。
毛谷村六助伝説から引用
いや、力強すぎでしょう!馬の4本足を持つシチュエーションなんてありますか?
でも、なるほど、岩の中で修業とは彦山豊前坊の窟のことだったんですね。
ちょっと気になる面白い説を紹介します。
毛谷村六助巨人説
毛谷村六助が霊山・英彦山に伝わる巨人伝説から生まれたキャラクターであるという説。
確かにこの英彦山周辺のエリアにはさまざまな伝説があるようで、
天狗、巨人、鬼などなどの異形のものがいたとされているようです。
毛谷村六助の怪力ぶりを思えば、これもまた確かになぁと思えるモデルであります。
実際この当時の人の身長はそんなに高くないはずですので、巨人に間違えられる事は
あったかもしれません。
毛谷村六助が世に知られるようになった訳
さて毛谷村六助が世に知られるようになった訳は、毛谷村六助を主人公とする時代物浄瑠璃《彦山権現誓助剣(ちかいのすけだち)》が,1786年(天明6)大坂で初演されて大当りとなり,その後繰り返し上演され,黄表紙・合巻・読本などにもとりあげられたため,広く知られる人物となったからです。
ヒコサンゴンゲンチカイノスケダチ
超簡単に説明すると、六助には師匠がいました。その師匠が悪者に闇討ちにあいます。その師匠の娘が六助にかたき討ちの手助けを頼み、悪者をやっつけるお話です。
こんな簡単に説明してしまっては怒られるかもしれないので
更に詳しく知りたい方は、次のページから見て下さい。
六助のモデルは宮本武蔵?
六助を宮本武蔵、師匠の一味斎を無二斎、敵の内匠は佐々木小次郎に当てているという説があります。宮本武蔵も大男で剣の達人!似てる! 一味斎と無二斎 !名前がすでに似てる!
内匠(たくみ)と佐々木小次郎・・バカボンドのイメージが強すぎて違う気がする・・
結果!似てるような似てないような感じです!
説は色々あるから面白いのです。
相撲で35人抜き!双葉山には及ばず
六助は後に、豊臣秀吉の前で相撲をとり、三五人に勝ったが、三六人目の木村又蔵に負けたので(三六人抜きしたという話もある。)加藤清正の家臣になり、木田孫兵衛と名乗り、秀吉の朝鮮出兵に従軍して戦死したといわれる。また無事帰国して六二歳で没したという話もある。
毛谷村六助伝説から引用
惜しい!双葉山は69連勝、白鳳は63連勝、35連勝はあの朝青竜と同じ記録です。
すいません。密かに相撲が好きなので許して下さい。
毛谷村六助と論介
これは面白い話です。この記事を書いてるうちに調べてわかった事なのですが、
この論介(のんげと読みます)は韓国では知らない人はいないという超有名人らしいです。
その超有名人と六助が関わりがあるという事を初めて知りました。
そもそも論介とはどういった人物なのでしょうか?
論介
朝鮮時代の妓生(1574?~1593)。文禄の役(임진왜란)の際に晋州城の戦いで勝利した日本の武将を抱きかかえて、南江に身を投げたことで英雄視されている。 |
この日本の武将を抱きかかえてとありますが、その武将が、毛谷村六助ではないかという説が
あります。(なかには加藤清正だという説も)
この六助と論介の話はこちらのページで詳しく書かれていますので
興味を持たれた方は読んでみて下さい。
毛谷村六助の墓
東京の国立劇場などで上演される歌舞伎「彦山権現誓助太刀」の主人公毛谷村六助は槻木で生まれました。加藤清正の家臣として、名を「木田孫兵衛」と改め、豊臣秀吉の朝鮮出兵に赴き、一番槍の名を馳せたといわれています。そんな六助の墓を地元の人々は今も大切に守り続けています。
また、毛谷村地区では、昔から毎月持ち回りで六助の肖像画を掲げてお経あげをし、お供えの赤飯やお煮しめをいただく「お茶たて」が平成24年まで行われていました。
朝や、夕方になると、どこからかほら貝の音が聞こえてくるそうです。これマジで!
豊前山国六助太鼓
この町では、町おこしの一環として、「豊前山国六助太鼓」が結成されています。
ちなみにこれを始めたのが、「仙人会」という村残しグループで、私の親父が所属してました。
解散から10年、息子である私が復活させました。
ちなみに赤い面をしたのが私です。
現在、少しづつ知名度があがり、出演依頼が殺到しております。
毛谷村六助に魅せられた男
みなさん地域おこし協力隊って知っていますか?
地方自治体が募集を行い、地域おこしや地域の暮らしなどに興味のある都市部の住民を受け入れて地域おこし協力隊員として委嘱する。隊員には地域ブランド化や地場産品の開発・販売・プロモーション、都市住民の移住・交流の支援、農林水産業への従事、住民生活の維持のための支援などの「地域協力活動」に従事してもらい、あわせて隊員の定住・定着を図る。一連の活動を通じて、地域力の維持・強化を図っていくことを目的としている。
(Wikipedia) より抜粋
3年前にこの制度を活用し、この町にやってきてから、毛谷村六助に魅了され、今や自宅に資料館を建設中の人物がいます。
そんな変態、いや六助をこよなく愛している人物の特集はまた後ほど。
毛谷村六助、謎の多い人物ですが、この町の伝説として今も語り継がれています。